yokohamaumareyokohamasodachi’s blog

お酒に溺れた時限定で綴るブログ

すごいアーティストを見つけました。

ここ最近聴いた中で1番すごいアーティストを見つけたのでお伝えします。

きゃりーぱみゅぱみゅ」さんです。
知ってる人がほとんどだと思います。なんなら私も知ってます。音楽番組に出演してたり、CMで楽曲を耳にする機会は多くあったと思います。でもきちんと音楽的に聴くことはありませんでした。中田ヤスタカさんがプロデュースしてるんだっけ?くらいの浅い認識でした。
そんな風に思ってたけ過去の私を叱りとばしたいですね。
聴くきっかけになったのはクレヨンしんちゃんの映画でした。オープニング主題歌をきゃりーさんが歌っているということに気づいてすぐ、「あれ、よく分からないけどいいぞ。」と感じた。曲に気を取られ映画の内容は全然入ってこなかった。(そのため主題歌含めて2回目を見ることになる。)
主題歌の余韻を引きずりながらApple Musicできゃりーさんを検索した。ミーハーな癖が出てとりあえず、「はじめてのきゃりーぱみゅぱみゅ」プレイリストをダウンロードした。何曲か聴いていると「にんじゃりばんばん」など知っている曲もあり楽しめた。そんな中異彩を放つ曲があった。
「きゃりーANAN」だ。聴けば分かるがほぼ同じ歌詞、リズムを繰り返してる。ポップでかわいい曲かと思いきや途中でエグいぐらい歪ませたベースが入っている。かわいい女の子ではなくひげを生やした小太りのオッサンが弾いているような歪み具合だ。かと思いきやまたポップな展開に戻る。本当に頭がいかれてくる。いい意味で。しかし恐ろしいのは激しいベースでギャップがあるというところではない。軽快なドラムに隠れてベースがとんでもないリズムで入っているのだ。この曲を司っているのは紛れもなくベースだろう。でもヘッドホンなどできちんと聴かないと分からない人がほとんどだと思う。そう思うと、キャッチーな楽曲の中に潜むエグいベースは聖人のフリをしたサイコパスみたいに思えてくる
皆さんも耳障りの良い楽曲にはサイコパスが潜んでいる可能性があるので気をつけて頂きたい。

死ぬこと以外かすり傷なわけがない

「死ぬこと以外かすり傷」とはよく言ったものだと思う。どう考えてもかすり傷でも痛いから嫌だ。この言葉の通りなら僕はここ一年くらいかすり傷を負いすぎて裂傷みたいになってるんじゃないか。他の人間はかすり傷を負った時どうしてるのかがとても気になる。好きなことに熱中するのか楽しい事をして忘れるのかどうなんだろう。とことん落ち込んでから立ち直る人もいるかもしれない。

某、高校生の怪盗団が世直しをするというゲームの登場人物で人々の認知を変えて嫌な事をこの世から無くそうとするキャラがいた。僕はトゥルーエンドを見るためにそのキャラと敵対するルートを選んだが、敵対しない場合は主人公や仲間たちの悲しい現実がなくなり(亡くなったはずの家族と暮らしてるなど)幸せそうに過ごす終わり方になるらしい。それを知った時これが現実なら今の僕は現実逃避するだろうなと思った。辛い事を乗り越えるとか人間関係は難しいからこそ良いとか言う人はどうぞご自由に苦しい道を進んでくださいと思ってしまった。

カスみたいな人間に嫌な思いをさせられた時でもそれを上回る幸せを持ってれば何とも思わないかも知れない。もはやかすり傷にもならないかもしれない。僕が望んでいるのはそのレベルかも知れない。死ななければ大丈夫とかではなく、僕にとっての傷は死だけであってほしい。

死ぬ事だけが傷

あぁ愛しいかな、人間

僕は人と関わる事が苦手だと思う。

私の方が…みたいな人もいるだろうけど、何を話せば良いか分からないとかコミュニケーションがとかじゃないでしょうかね。

僕の言う関わる事というのは自分の身を相手に委ねる意味のこと。「全幅の信頼を置く」とかかな。これといって取り柄もない僕だけど、愉快な仲間が周りにいるのは幸いなことだと感じる。もちろん皆んなの事は好きだけど、ふとした時に孤独を感じる。こんな経験は他の人もあるんじゃなかろうかい?孤独を美学に感じる歳はもう過ぎてるだろうしなんで僕はこうも無を感じるのかなと自己分析してみた。

一つとしておうちの話があると思う。両親がいて姉がいて、おもちゃを買って貰ったり旅行したり不自由ない暮らしができていたと思う。

幼い時は。

思春期になって周りと自分を比べるようになると自分のおうちの歪に気づき始めた。心無い言動を浴びせ、そうかと思えば僕に普通に接してくる。混乱して訳がわからない。そんな状況でも年月は進み、成長することができた。大学を出たら絶対家を出るという願望を持ち続けて成長した。大学在学中は実家にいるのかよ!というなんとも中途半端な願望だった。今になって思えば社会人になってもおうちにいて良かったかもしれない。けれど、あの時は家族は頼れる人の枠にいなかった。幼少期の楽しい思い出も思春期の苦しい記憶でぐちゃんぐちゃんになって家族に何かを与えることも求めることもなくなった。ただそこに存在するだけになってた。

そんな育ち方をして誰かとつがいになれるのかというとこだが案外なれた。でもなれなかった。なれなかったというよりは成りきれなかった。相手のことを受け止める覚悟はあっても自分を受け止めて貰う覚悟はなかった。どこまでいっても自分の人生は自分の責任だから、と。

社会人になり新しく人と関わる事が劇的に増えた。休日も遊びに誘ってくれる先輩や、ご飯に誘ってくれる同期。かなり恵まれた環境だと思う。けれど孤独のまま。一生涯の友人なんて1人いればいい方だろうけど、関わる人全てにそのレベルを求めてしまう。だから距離感が分からなくなり自然と他者を遠ざけてしまう。本当はもっと自分を見てほしい、他者と深く関わりたいのに…

悲しきモンスターみたいな事を言う僕だけど、そんな僕を見て、微笑んでくれるような人はいるのかな?いたとしたら心の器がたいめいけん。いや、僕がむしろ皆んなに愛を振りまきたい。誰よりも人間が好きだから。


横浜生まれ横浜育ち

中野よりあいをこめて